本日も散歩。今日は水辺の散歩コースを行きました。
ステイホーム。出口が見えないねえ。
散歩に出歩いているけれども、単なる郊外の住宅地なので、すれ違う人もまばら、なので、ソーシャルディスタンスは大丈夫なはず。
と、こんな謎のカタカナ言葉を使う日々とおさらばしたいぜ。
写真撮って歩いて、水辺はキラキラで、でもなんだかせかいが滅ぶ、みたいな気持ちになるんだよなあ。間違えた並行世界に迷っているような。やれやれ。
公園に、多分忘れ物なのではと思う帽子が置いてありました。
なんか、思い浮かぶ、この 母さん、という呼びかけ。なくした帽子。って、なんだっけ。ぐぐってみよう~。で、西城八十の「ぼくの帽子」という詩なのだと認識しました。
ぼくの帽子 西條 八十
―母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。
―母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあの時、ずいぶんくやしかつた、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。―
―母さん、あのとき、向から若い薬売が来ましたつけね。
紺の脚絆に手甲をした。―
そして拾はうとして、ずいぶん骨折つてくれましたつけね。
けれど、たうとう駄目だつた、
なにしろ深い谿で、それに草が
背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。
―母さん、ほんとにあの帽子、どうなつたでせう?
あのとき傍に咲いてゐた、車百合の花は
もうとうに、枯れちやつたでせうね。そして
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で、毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
―母さん、そして、きつと今頃は、―今夜あたりは、
あの谿間に、静かに雪が降りつもつてゐるでせう、
昔、つやつやひかつた、あの以太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y・Sといふ頭文字を
埋めるやうに、静かに、寂しく。―
ぐぐってよそ様からコピーさせてもらった。こんな詩だっけ。
そして、映画「人間の証明」の宣伝でキャッチフレーズのように使われていたのかーと知りました。多分それを見たことがあって印象が残っているのか。映画を見た覚えはないなあ。多分テレビでやったりしてただろうから、少しは見たことあるだろうけど、どういう映画だっけ、わからない。見てみようかなあ。アマプラにある、けど、有料だ。ん~。レンタルしてもいいかなあ。ん~。覚えていたらまたそのうち。
でも、このフレーズの強さ、すごい。「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね」
せかいはだいじな帽子をなくしちゃってるみたいです。